2017年12月28日木曜日

「伏見の船宿」の件

こちら

http://riodebonodori.blogspot.jp/2012/05/blog-post_08.html

の続き(?)ですが、

何故か突然、本棚の『南朝全史』(森茂暁)が目についたのでパラパラと読み返していて、ふと思いついたこと。

熾仁親王が上田世祢(ヨネ)と密会を重ね、世祢が王仁三郎を身籠った場所「伏見の船宿」=<伏見>、

熾仁親王の和歌「わが恋は深山の奥の草なれや 茂さまされど知る人ぞなき」の
 「<深>山の奥の<草>」=<深草>、

 は、<伏見><深草>という明確な持明院統キーワード(後深草天皇-伏見天皇-後伏見天皇)で、(熾仁親王~王仁三郎は北朝系デスという)メッセージだったのかなと。

 ついでに思ったのが、後深草天皇の諱は久仁(ひさひと)。。。



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